「哲学の巫女」
池田晶子女史の言葉
あなたはなぜ満たされないか
「幸福」の名で、
人が反射的に、
「暮らし」もしくは「暮らしぶり」を、
表象してしまうのは、
いったいいかなる習性なのか、
いつ頃からの癖なのか、
しかし、
この習癖それ自体がじつは、
見事に不幸を示している。
「幸福」の語によって、
あれこれ中身を表象する人の不幸は、
たとえば、
そこには必ず比べる心があることだ。
自分と他人を、
自分の暮らしと他人の暮らしを、
比べる心があることだ。
しかし、
自分の幸福に完結している魂が、
いかなる理由があって、
他人のそれらを気にするだろう。
なぜ人は、
自分で幸福であろうとはしないのだろうか。
自分以外のいったい誰が、
幸福であることができるのだろうか。
『残酷人生論』引用
幸福な心は買えない
幸福というのを、
お金に代表される、
職業、生活、暮らしぶり、
外から見てわかる形のことだと思うことで、
人は間違える。
どんな職業、
どんな生活、
どんな暮らしをしていても、
その人の心が幸福でないなら、
そんなものは幸福ではない
ということに
気がつかないんだ。
でも、
幸福であるとは、
心が幸福であるということ
以外ではあり得ない。
不幸な心は、
どんなにお金を積んでも、
幸福な心を買うことだけは
できない。
すると、
一番欲しいものを
買うことができない
お金なんてもの、
どうして人は、
欲しがるのだろう。
『14歳の君へ』引用
「幸福」というものを、
自分と他人との
相関関係によって、
計ろうとすることの愚かさを、
違った形で表現している一編、
「人を愛せないと悩む人へ」、
人を愛せないと悩む人へ
愛する人がいないから
幸福になれない、
と思い込んでいるから、
あなたは不幸なのです。
どうして他人がいなければ、
あなたは幸福になれませんか。
他人がいなければ
幸福になれないという
まさにそのことが、
「愛する能力に欠けている」
というそのことなのです。
だって、
自分を愛することが
できない人が、
どうして他人を
愛することができますか。
愛のない人が、
どうして愛することが
できますか。
すべては順序が逆だった
ということに、
気がつくことが、
始まりですね。
『人生は愉快だ』引用
複雑で多様化した現在社会において、
このようにシンプルなかたちで、
「幸福」というものを捉える、
そのこと自体が、
容易ならざるものと、
なり得ているのやも、
知れませんが、
いかに自分を克己として、
持ち得ていたとしても、
ストレスに苛まれた周囲の他人の、
常に尋常ならざるマウント行為、
現在社会の歪な闇に侵された他人、
そんな現在社会に晒される個人の、
こころの保ちようは、
容易ではないからこそ、
今こそ、「哲学の巫女」の、
語る言葉を、
心してかみしめる時、
なのかもしれません。