腹の括り方〕
「生きる」ということが、
いい大学に入って、
いい仕事に就いてということなら、
哲学が力になるわけがない。
どころか、
そんなもの障害でしかないのは
火を見るよりも明らかである。
いい大学、いい就職と、
皆が躍起になっているところで、
「何やってんの」と問うことが、
障害でないわけがない。
だけど、見ててごらん、
遅かれ早かれ皆は
事柄の意味に気がつく。
気がついて初めて問う、
「何やってんだろう」。
人生と存在の意味と無意味は、
若いうちにうんと
考えておいたほうがいい。
「生きる力」というのは、
言葉を換えれば、「腹の括り方」
みたいなもんだからである。
いい大学、いい就職、
それがどうした。
「僕は[善く生きる]
ということを知っている。」
〈考える日々 全編〉池田晶子(著)
〔善く生きるとは〕
「食べなければ生きていけないではないか」
と人は言います。
もちろんそうです。
だけど、
生きていることそれ自体が、
生きるためだけに生きている人にとって、
なぜ価値であり得るのか。
生きることが
価値であることができるのは、
それを善く生きている人に
限られるはずですね。
ここで「善く生きる」というのは、
決して道徳的な意味合いではないですね。
逆にその道徳性も含めた
社会的な作りごと、
虚構性を見抜いて、
それを虚構だと自覚して、
より賢く、自発的に
生きることを言うのです。
〈人生のほんとう〉池田晶子(著)
「善く生きる」とは、
難しい問いではあります。苦笑。
そも、普段そんなことを自分に、
問いかけて生きている人は少ない
のではないでしょうか。
というか、少なくともわたし自身は、
あまり考えてはいなかったような。笑。
ただ一つだけ言えることがあるとすれば、
「人の役に立つ」ことをして、
生きていくことが正しい道、
ではなかろうかと、そのことはずっと、
こころに留めていたような気がします。
まあしかし、こうして「善く生きる」とは、
などと問われた上で、よくよく考えてみれば、
人の存在そのものが、もうすでに、
「人の役に立つ」と言う観点からすれば、
役に立っているだろうことは明白であり、
ただその「人の」という部分が、
どの「人」に役立っているかの違いだけであって、
まあそこから先は、あまり深入りすると、
それこそ哲学的になってしまうので、
生兵法は怪我の元ということで、
ここらあたりでやめておきます。苦笑。
ただ上の文章の最後のあたりの、
「道徳性も含めた社会的な作りごと、
虚構性を見抜いて、
それを虚構だと自覚して、、、。」
このあたりがこの「善く生きる」の
肝の部分だと思われますが、
ちょっと凡人には、
スッと腑に落ちにくい表現ではありますね。笑。
要するに、かって、
かのソクラテスが言ったという、
「悪法も法なり」
もっと身近に近づけると、
最近、盛んに問題になっている「校則」
そういった類いの、言ってみれば、
本質ではない、虚構性に満ちている
のだけれども、そこを見抜いて、
敢えてそれをつくりごとと自覚して、
その上で、より賢く、
自発的に、「腹を括って」生きなさい。
そういうことで、今回は、
まとめてみましょう。