(暮らしの中の哲学者・池田晶子)
もし本当を知りたいのなら、
考えることだ。
〈悩むな、考えよ〉
コトバをめぐって、
我が敬愛する
哲学者・池田晶子はこう書いている。
{彼女は言葉と書くとき、
片仮名で記したり、
括弧に入れたりしない。
池田にとって言葉は常に、
コトバを意味していたからである。}
死の床にある人、
絶望の底にある人を、
救うことができるのは、
医療ではなくて、
言葉である。
宗教でもなくて、
言葉である。
共に居て、
共に感じ、
語り合う。
語ることがなければ、
語ることもなく、
そんなふうにして
通じ合ってゆくことが、
言ってみれば
「救い」という
そのことなのだろう。
コトバは生きている。
あるときコトバは、
眼前の他者よりも
はっきりとした
姿をまとって、
私たちの前に顕われる。
コトバのもっとも
重要な働きは
救済である。
と彼女は感じていた。
コトバは人を、
救わずにはいられない。
それが、
彼女の経験した
コトバの本性だと
いってよい。
困難があり、
それを単に
解消することが
「救い」なのではない。
むしろ、
避けがたい
人生の経験を前にしながら、
それを生き抜く
道程の同伴者であることが、
「救い」となる。
「救う」とは、
寄り添うこと、
共に生きることだと
彼女はいう。
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わたしにとって、
どうしても
忘れることのできない
出来事がある。
2014年の年明けから
暑い盛りの夏に至るあいだ、
妻にガンが再発し、
治療のために
入院していた病院での
その数ヶ月間は、
まさにふたりにとって、
魂と魂でふれあう
「コトバ」のやりとり
そのものだった気がする。
その間のやりとりを
詳しく述べるにはまだ、
わたしの心がある境地に
達していない気がするので、
またいずれ
別の機会にでも
書き遺しておきたいとは思う。
ただその、 結果として、
最期の入院生活となった
病院におもむく朝、
迎えのタクシーに乗るために、
エレベーターを降りて、
エントランスに出たその時、
妻が一言、
「若い人もらって、
やり直すんだよ!」
わたしの中で一瞬
時が止まった。
当然私の中では、
治癒の可能性を信じて
向かおうとする病院であったし、
妻の心の中にも当然
その想いは強く
あったと思うし、
ただ、今思えば、
妻の心の中には、
もうここには、
二度と帰って
これないかも
しれないという
そんな哀切の想いが
あったのだと、、。
思いもよらない
妻のその一言に、
一瞬たじろぎながらも、
何故か妻の私たち(私と息子)への
真心からの
深い愛情が強く感じられて、
「それは無い!
もうそんな元気ないよ!」
と、笑いながら返すのが
わたしの精一杯の真心でした。
そのときの妻の表情は
車椅子を押す私からは
うかがい知ることは
できませんでしたが、
その時のふたりは、
二人の別個の人間ではなく、
ひとつに溶け合った魂の
シルエットであったと
確信しています。
コトバは
言語でもあり得るが、
ときに色であり、
音であり、
また芳香あるいは、
かたちでもある。
温かみや、
寄り添う感触、
不可視な存在感
として
感じられることも
あるだろう。
苦しいとき、
悲しいとき、
希望を見失ったとき、
コトバは、
魂にふれる
触手のような
ものとして
経験される。
「あたりまえなことばかり」
池田晶子(著)引用。