いつの頃からか、世間は「夢を持て」だとか、
「夢を持たない人間は生きてはいけない」みたいな、
そんな風潮が跋扈するようになった気がする。
「夢を持たない人間は植物とおなじだ」などと、
映画の主人公がこれみよがしに言ってみたり、
学校の卒業式では、校長先生が「夢を持て」などと、
さも、夢を持たない人間は生きてはいけないみたいな、
無論、やりたい人間はやればいいのであって、
そんなことは何も、威張ることでも強制されることでも、
決してないことなのであって、
そういう言葉に煽られる必要は本来ないのである。
世間全体が一緒になって、
「自分らしく」も「夢」も「定年後」も、
もともとありもしない問題を、
さも重要なことのように見立てて、
「あなたはその生き方で大丈夫ですか?」と、
脅迫してきたのである。
人は生きていくなかで、
それまでそんなこと考えもしなかったのに、
(まあ、なかにはいたかもしれないが)
そんなうその問題に心つかまれてしまって、
「さあ、どうしますか?」と訊かれると、
「さて、どうしようかな?」などと、
本来考える必要もない無駄なことを考え、
心を煩わせて、取り越し苦労をするようになった。
「夢をあきらめないで」や「夢の途中」や「夢に手足を」や、
「夢は諦めなければ必ず叶う」などと、
巷には、そんな耳障りのいい言葉が氾濫して、
無駄な強迫観念に捉われた老若男女が、
やれ、「自分探し」だ「定年リアル」だ、「夢追い人」だと、
蟻が甘い蜜に群がるように、そんな言葉に群がっている様は、
まさに、そんな脅し言葉で金もうけをたくらむ連中の、
手のひらの上で踊る一般大衆の浅ましいことこの上ない。
そもそも「夢」も「定年後」も「自分らしさ」も、
「どうする?」もへちまもないのである。
「どうもしない」あるいは「好きにする」あるいは、
「なるようになるさ」でいいのであって、
勢古浩爾(著)「ただ生きる」流に言えば、
ほんのちょっとの意思と、
ほんのちょっとの生きがい(愉しさ)がある。
目的の夢もなくても、「生きる」を主題とした
「ただ生きる」で生きられればいいのに、
みんながみんな、
大きな目標や夢をもつわけではない。
しかし世間は、
大きな夢をもつ人間は、
小さな夢をもつ人間より上で、
小さい夢をもつ人間も、
なんの夢もない「ただ生きる」人間よりも上、
といった見方をする。
ほんとうは、どれもみんな同列なのだが、
世間的には決してそうではない。
社会にはすべてにおいて、
地位と収入と人気度によって、
位階と序列が存在し、
ほとんどの人間は、
それにとらわれている。
だけど、「ただ生きる」者は、
怠惰で不真面目で無気力な、
無為徒食の生き方をしている者ではない。
基本はまじめに生きているのである。