世の中が、人間が、いよいよ
崩れてきていると感じる。
たとえば、どうです、あなた、
人が金を儲けたいと思うのは
当たり前だと思いますか。
金を儲けるために
人を押しのけるのも
当たり前だと思いますか。
人生とは金なのだと思いますか。
そういう根本的な疑問そのものが、
人々から失せてしまった
のではないかと感じる。
「人生とは金なのだ」、
人はこう言って憚らず、
そう言って憚らない人が
カッコいいと憧れの的になる。
以前なら、
そういうことを口にするのは、
少なくとも憚られる
ことではなかったか。
何かが、
決定的に崩れつつある。
後戻り不可能な、
決定的な一線を越えつつある。
そんな感じがする。
そんなふうに「勝ち負け」の選別が
決定的になったために、
「負け」に回った側の人々も、
それはそれで
おかしくなっている。
幼い子供が
金を儲けたいと言い、
いい年寄りが
アンチエイジング
しか言わない。
そんな世の中で
これ以上
生きていたくない。
どんな未来がそこにある。
〈知ることより考えること〉池田晶子(著)抜粋引用
確かに、人が生きていく上では、
「お金」というものは必ず
必要となるものではあるし、
その多寡によって、
生活スタイルに少なからず
影響を与えるものでは確かにある。
そのことによって、
人の3大不幸とも言われる
「病」「貧乏」「煩悶」、
これらへの反応をも、
少なからず変わると、
それは確かに言えるとは思うのだけれども、
だからと言って、それによって、
人の値打ちが変わるものでは、
決してあるはずもないわけで、
その部分の認識が、価値観が、
どうも「勝ち組負け組」なんていう言葉が
幅を利かし始めたあたりから、
どうも生きにくい世の中に
なりつつあるような気がする。
極論すれば、「生存」できるだけのもの、
必要最低限の「生活」に足りるだけのもの、
まさに極論すればそれでこと足りる
ことではあるのだけれども、
まあしかし、お金自体は、
多くあって決して困るものではないし、
逆に言えば、少なくて困るという場面は
往々にしてあるというのもこれ然りで、
そう言った意味においては、
「お金儲け」「お金を稼ぐ」そのものが、
非難されるものでは決してないし、
そもそも「仕事をする」というのは、
そういうことではあるのだから、
ただ、決定的にそれは違うと言いたいのは、
それによって、「勝ち組負け組」だとか、
人の値打ちを決め付ける部分であろう。
そこだけは、はき違えては、
下等な人間と言われても、
いたしかたあるまい。
「稼ぎはするが、
はきちがえはしない。
それが今流の生き方なのかも、、。
たとえ世の全員が、
金儲けに狂奔しても、
私は金儲けのために、
生きることはしないと決める。
これは可能である。
たとえ世の全員が、
互いに悪意を投げ合っても、
私は悪意を所有しないと決める。
これも可能である。
私は、私だけは、
善い人間として、
善い人生を全うするのだ。
「負け組」に回り、
絶望して死にたくなっているあなた、
どうです、
あなたもここらで、
幸福になりませんか。
難しいことじゃない。
簡単なことなのだ。
他人の言うこと、
他人のすることを
気にしなければ
いいだけだ。
他人を気にして、
他人と幸福を
競おうとするから、
人は不幸になる。
しかし、
生きているのは
私でしかないのだから、
世界とは私なのだから、
私が幸福にならずに
誰が幸福になる。
〈知ることより考えること〉池田晶子(著)抜粋引用
人の真の値打ちは
地位でもなければ名誉でもない。
はたまた権勢や富でもないぞ。
信念があるかないかで
その人の値打ちが決まるんだ。
〈中村天風談〉