もうけっしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまっている
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軋道をすすむ
〈賢治の詩の世界〉 「小岩井農場」の一節
「悲傷」悲しみの傷、
それは目には見えません。
心の傷跡を、「淋しさ」と共に「焚く」。
そして、焚かれたところから発せられる光で、
人はその人の人生の道をひとり、
歩いて行くというのです。
口ではもう大丈夫だと言える。
事実、そう感じることもある。
だが、また、かならず淋しくなる。
「けれどもここはこれでいいのだ」
理屈の通らないところにこそ
人生の実相がある、というのです。
悲しみには層がある。
悲しみは生きることによって深まってくる。
人は誰もが、あるときから、
悲しみの光によって導かれ、
人生の深みをかいまみようとする
旅に出ることになる。それが定めだ。
と、賢治は言うのです。
「詩と出会う 詩と生きる」
若松英輔(著)抜粋引用