〈哲学の巫女〉
池田晶子女史
【還暦というのは】
還暦というのは、読んで字の如く
暦が一巡りすることだ。
その意味で、
人生の一通りの終結と考えていい。
人生が時熟し、
その果実を思索し味わう時だ。
人生の最終段階における
生死もしくは天地の思索は、
どんなに玄妙な味がすることだろう。
私は今からでも、
その期待にわななくような心地になる。
その味を知るのでなければ、
何のためにそんな歳まで生きてきたのかわからない。
私はそう思う。
せっかく人間に生まれたことの意味だと思う。
「池田晶子(著)知ることより考えること」一部引用
池田晶子女史言うところの、
「還暦は人生の最終段階における
人生の時が熟し、その果実を
思索し味わう時、
そしてそれこそが、せっかく
人間に生まれたことの意味である。」
さすがは暮らしの中の哲学者・池田晶子女史であると、、。
これを自分に当てはめて思うに、
60歳という還暦の声を聞き始めて、
ちょっと生きるペースを落として行こう。
それまでの生き急いでいるが如き人生ペースを、
一度立ち止まって、辺りをゆっくり見渡して、
これからどういうペースで人生の黄昏時を、
歩んで行けばいいのかを考えてみよう。
なんていう風にすることは、
それはそれで出来ないこともなかったとは思うけど、
実際のところは、それまでの歩みのペースの中で、
まったく立ち止まることもなく、
フッと心に降りてきたイメージそのままに、
そのイメージをただなぞる様に、
過去と未来の真ん中の自分、
ただその時の自分自身の想いだけを信じて、
静かに背負っていた荷物を降ろしながら、
坦々と新たな道程に向けた荷造りをした。
いま振り返ると、還暦の声を聞き始めた時の
あの時の自分自身が正しかったのか否か、
そんなことに考えが及ばない自分がここに居る。
及ばないと言うよりかは、ただいまの時点では、
及びたくないと言うこころもちという風が、
正しい認識のような気がしています。
ただ一つだけ言えるとするならば、
父を亡くし、妻を亡くし、母を亡くし、
そして一人息子が独り立ちしていくなかで、
我が人生の黄昏時をいかに生きるべきか、
魂の深いところに湧いたインスピレーション、
そのインスピレーションのままに身を任せた、
ありのままの自分自身がそこには居た。
だから本当にそのことが正解だったのか否か?
今は自分でどう考えてもわからない。
ただひとつわかることがあるとすれば、
この黄昏のひとり暮らしを、
”らしく生ききる”ということ、
ただそのことに全力で日々を過ごす。
それでしか、いかに考えたところで、
答えは導き出せない気がしています。
〈考えるということ〉
社会批判をするということと、
ものを考えるということは、
全然違うことなのである。
考えるというのは、
黙ってひとりで反省する。
内省する。
思索する。
ことを言うのであって、
考えてるつもりだけの言葉を
社会に向けて言っちゃいけないのである。
そんなものは動物の叫びみたいなもんなんだ。
だって考えられてないんだから、
他人を批判する前に、
自分を批判してこい。
「池田晶子(著)知ることより考えること」一部引用