65歳からの食う寝る稼ぐ!
思えば遠くへ来たものだ。
学業を終えて、社会に出てから、
右も左も分からないままに、
たくさんの事で悩みながらも、
その都度、良かれと思いながら、
自分なりに大小の決断を積み重ねながら、
ここまで到達したのだけれど、
それは何も私だけに限ったことではない。
人は誰しもがそうやって生きているものだ。
そして何といっても、人というものは、
食べなければ、寝なければ、生きてはいけない。
そしてそのためには、
好むと好まざるにかかわらず、
稼がなければ始まらない。
食べていくために稼ぎ、寝るために稼ぐ。
そうやって考えてみると、
人が生きるということは、
つくづく単純なものだと思えてくる。
というか、単純に考えた方が生きやすい。
食う・寝る・稼ぐ。
シンプルに考えてみればこの繰り返しが人生。
子供の頃は、食う・寝る・遊ぶ。
学生の頃は、食う・寝る・学ぶ。
振り返ってみると子供の頃は、
遊ぶのが仕事だからなんて言われて、
ずいぶんと野放図に育てられるし、
それがある時期を過ぎると、
勉強が仕事だよ!に切り替わってくる。
そしてまたある時期が過ぎると、
稼ぐことが仕事になって生きる事の全てになる。
考えてみればその頃から人は、
ストレスなるものを大きく意識する様になる。
それというのもそれだけ稼ぐという行為は、
容易くはないという事なのであろう。
遊ぶことは容易かった。
学ぶことも容易かった。
それが稼ぐ事になった途端に、
容易ではないものに変わるのはこれ如何に。
遊ぶことは容易い。
学ぶことは少し容易い。
稼ぐことは容易ではない。
でもこうやって改めて考えてみると、
実のところ、遊ぶ事も容易いばかりではなかった気がするし、
学ぶ事も容易いことばかりではなかった気がする。
それが稼ぐ事になると、一気にハードルが上がって、
容易ではない事という固定観念に捉われてしまうのが、
多くの人の実情ではないであろうか?
ある意味それもそのはずで、子供の頃は、
遊ばなくても食っていけるし寝ることも出来る。
学生の頃も同じで、学ばずとも生きてはいける。
それが自立した途端に、自分で稼がなければ、
食うことも寝ることも出来なくなって、
生きられないというプレッシャーが襲い掛かる。
弥生時代や縄文時代なら、
野山に寝て、自然を食って、
それでも生きてはいけるけれども、
その分大きなリスクに晒されながら
生きているわけだけれども、
文明時代の現在、そのようなリスクは
無くなったけれど、また違ったリスクに
晒されながら生きていく。
ある意味、人が生きるって儚く空しい。
だからこそ、心を空にして、
その空しさと同化しながら、
生きていくことが最善なるものなのかな。
心を空にして、
遊ぶように稼いで、稼ぐことを遊ぶ。
その昔、かの名コピーライター糸井重里さんの、
日産・セフィーロのコマーシャルで流れた
食う・寝る・遊ぶ。
これって意外と哲学的だったんだな。
65歳過ぎたら、
食う・寝る・遊ぶ。
を意識しながら、
子どもも巣立ったことだし、
ひとり老後生活、
気楽に生きてみようじゃないか。
遊ぶを稼ぐに変えて、
肩の力を抜いての、
食う・寝る・稼ぐ。
極めて生きてみよう。
もうそんなに大きく稼ぐ必要もないんだし、
黄昏フリーランサー
小さく稼いで気楽に生きる。